新翻訳事業について

日本聖書協会 講演会 聖書を耕す ―聖書との新たな出会いのために― 石川 立氏

石川 立氏
2014年5月15日
於・TKP大手町カンファレンスセンター

しかし、「あんたなんか、大嫌い」というセリフの中の「嫌い」の意味は、この辞書にある意味とは違うのではないか、と思われます。ここでは、「嫌い」という意味ではなく、むしろ、まったく逆の「大好きだ」という意味であるのかもしれません。辞書にはない意味ですね。このような、辞書にない特殊な意味は、このセリフが小説の中に埋め込まれてあるだけでは出てきません。読者がいなければ、読者がこのセリフを読まなければ、このような意味は出てこないのです。誰にも読まれなければ、このセリフは永遠に生きてこないのです。小説の中で、文字の中で、死んだままです。

もちろん、このセリフだけではその意味ははっきりしません。文脈がどうであるかによって意味はいろいろ変わってきます。しかし、基本的には、言葉の意味というものは、読者がなければ出てこない。生まれない。意味というものは、テクストと読者との出会いによって生まれてくるものだと言えます。文脈というのは、言葉の意味を限定する働きというよりは、テクストと読者とが出会いやすくする働きを持っていると言ったほうがいいのではないでしょうか。

「あんたなんか、大嫌い」というセリフを小学一年生あたりが読めば、素直に、文字通り、「本当に嫌いなんだな」と理解するかもしれません。しかし、大人が読めば、これは大好きだということを表現していると理解できます。もちろん、大人でも、その理解の仕方は一様ではないでしょう。厳密に言えば、人それぞれで、このセリフの「嫌い」をどう理解するかは異なってくるだろうと考えられます。テクストと読者とはどのように出会うのか、その出会い方によって、意味は変わり、理解は変わってくるのです。

テクストの意味は、テクストの中にあらかじめ入っているのではなく、テクストと読者との出会いによって生まれて来るものです。読者が変われば、出会いのあり方も変わり、理解も変わり、意味も変わります。また、同じ人が読むにしても、読むごとにテクストとの出会いは変わってきます。そして、その都度、新しい意味が生まれてくるのです。

聖書の中に「あんたなんか、大嫌い」というセリフがあるわけではありませんが、他のセリフ、他の言葉ですけれども、このセリフと同じように、読者との出会いを待ち、新しく生まれたがっている言葉が聖書には満ち満ちている、と言うことができます。聖書の言葉は文字として死んだままでとどまりたがっているのではなく、読者に読まれ、読者の中で生きようとしています。

ですから、聖書を読む者は、読むごとに新たに聖書の言葉と出会い、読むごとに聖書の理解も異なってくる、と言えるのです。

ところが、聖書も読み慣れてしまいますと、一方では、読み慣れるということは勿論いいことなのですが、他方で、新鮮な出会いがなくなってしまう恐れもあります。テクストと出会う・言葉と出会うためには、横のほうに滑っていくのではなく――聖書を速読して全体の流れを掴むということも大事ですが――横に滑るのではなく、縦に読み込む、掘り込む、比喩的に言えば、テクストの上に立ち止まって、その下の固くなってしまった表面を耕す必要があるのです。固くなったテクストを耕して、改めて、意味の創出を待つ。そして、新しく立ち現れた意味を吟味する・味わい直す必要があるのです。

テクストを耕す必要がある。でも、翻訳されたものの上では、耕すのは不徹底にならざるをえません。翻訳されたものは表面が固い。翻訳されたものを耕す場合、他のいろいろな日本語訳、外国語訳などを参考にして耕すことになりますが、やはり不十分です。十分に耕すためには、どうしても原文に戻る必要があります。ここに、新しい翻訳の出番があります。原文に戻り、訳を検討しながら翻訳し直すことで聖書を耕すわけです。踏みならされ固くなってしまった翻訳の表面の土を耕し、土に空気を入れ、土を柔らかくし、豊かな土壌にします。

ですから、聖書を新たに翻訳するということは、聖書を耕すことなのです。耕された豊かな土壌からは、さまざまな植物が生え、いろいろな色の花を咲かせる可能性があります。読者との出会いによって新たな聖書世界が広がります。新たに耕された翻訳テクストによって、読者は聖書と新たに出会うことができる、というわけです。

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