新翻訳事業について

聖書事業懇談会 新聖書翻訳の魅力―旧約詩文学を実例として― 小友 聡氏

小友 聡氏
2016年3月4日
於:大会議室(名古屋市)

(2) コヘレトの言葉3:9-15

<新共同訳>

  1. 人が労苦してみたところで何になろう。
  2. わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
  3. 神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。
  4. わたしは知った
    人間にとって最も幸福なのは
    喜び楽しんで一生を送ることだ、と
  5. 人だれもが飲み食いし
    その労苦によって満足するのは
    神の賜物だ、と。
  6. わたしは知った。
    すべて神の業は永遠に不変であり
    付け加えることも除くことも許されない、と。
    神は人間が神を畏れ敬うように定められた。
  7. 今あることは既にあったこと
    これからあることも既にあったこと。
    追いやられたものを、神は尋ね求められる。

<新訳(案)>

  1. 人が労苦したところで、何の益があろうか。
  2. わたしは、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た。
  3. 神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えられた。だが、神がなさった業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。
  4. わたしは知った。
    一生の間、喜び、幸せを造りだす以外に
    人の子らに幸せはない。
  5. また、すべての人は食べ、飲み
    あらゆる労苦のうちに幸せを見つめる。
    これこそが神の賜物である。
  6. わたしは知った。
    神がなさることはみなとこしえに変わることがなく
    加えることも除くこともできない。
    こうして、神は、人が神を畏れるようになさった。
  7. 今あることはすでにあった。
    これから起こることもすでにあった。
    神は過ぎ去ったものを探し求める。

この3:9-15はコヘレトの言葉ではよく知られた箇所です。新共同訳になじんできた者にとって、新しい訳を受け入れるには抵抗があるかも知れませんが、見ていきましょう。

まず導入9節の「何になろう」(新共同訳)は、新訳では「何の益があろうか」と訳され、コヘレトのキーワードの一つ「益(イトローン)」がきちんと訳出されます。新共同訳では、コヘレトを快楽主義者のように見る傾向があり、12節は「人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ」と訳されています。けれども、コヘレトは決して快楽主義者ではありません。これに対して新訳は、できるだけ原典に忠実に、「一生の間、喜び、幸せを造りだす以外に/人の子らに幸せはない」と訳されます。次の13節の「労苦によって満足する」(新共同訳)という表現は、「労苦によって幸せを見つめる」と訳され、これもまた原典のヘブライ語の息吹をきちんと伝える訳文になっています。原典に忠実という点では、11節の「永遠を思う心」(新共同訳)は、新訳で「永遠」と訳されます。「~を思う心」は原文にはないからです。さらに、15節の「追いやられたもの」(新共同訳)は、「過ぎ去ったもの」と正しく訳されますが、これについては注が付けられ、「別訳「追いやられたもの」」を脚注で示しています。以上、新共同訳と違う点を指摘しました。新訳が新共同訳のわかりやすい訳文を継承し、できるだけ原典に近付ける努力がされていると思います。原典に忠実であっても礼拝での朗読に適するものでなくては意味がありません。その課題についても新訳の訳文は十分な検討がされていると思います。

次に雅歌の新訳を紹介しましょう。

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