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聖書事業懇談会 文化を超えて聖書の行間(神のマイナンバー制度) 浦野 洋司

浦野 洋司氏
2016年3月11日
於:メルパルク横浜

1. 「慣れ」という落とし穴がある。聖書には慣習的に読み、当たり前として見落とす、または見ないでいる部分がある。

私が小さいときからお世話になったアイルランド系米国人で宣教師、ルシアン神父という方がいました。戦後すぐ来日、日本語も全く話せない頃に、将来の活動のためにと日本中を視察して回ったそうです。そのような中、東北地方を回った後に続けて東京から長崎まで旅をしました。新幹線のない時代ですから、夜行寝台列車の食堂車で何回も食事をするような長い旅でした。食事の席ではどういうわけか、いつも同じ男性が自分の前に座ったそうです。その男が初対面の食卓で手を合わせ、突然言い放ったことばは「いただきます!」でした。それはルシアン神父にとって全く意味の分からぬことばでした。そこで当惑しながらも自己紹介かも知れないと思い「ルシアンです!」と応えました。その男は英語が全くできず、共通のことばがないために二人はただ黙々と食事をして別れました。次回もその次も、食堂車に行くたびに例の男がいます。会話はただ「いただきます」と「ルシアンです」そして、無言の食事という不思議な時間が過ぎました。

さて、いよいよ長崎に到着直前の最終日、さすがのルシアン神父も何かおかしい、これは食前の祈りかも知れないと察し、今度は自分から先に食堂車に行って男が来るのを待ちました。例によって男が自分の前に座ると、待っていましたとばかりにルシアン神父が「いただきます!」と勢いよく宣言しました。すると、何とその男は「ルシアンです!」と応えたのです。
   可笑しくも珍しい話ですが、私たちは似たようことをしています。つまり、それが正しいかどうかを吟味しないままに、何回も繰り返されるとそのまま踏襲してしまう傾向があるようです。

最近地方に多い不思議な交通事故の報道がありました。それは十勝型事故とか田園型事故とも呼ばれるものです。なぜか見通しのよい田舎の田園地帯の交差点で大きな事故が起きるのです。見晴しのよい場所ながら慣れ慣れになってしまい、周囲を見ない、または見えない状況になるのだそうで、これをコリジョーンコース現象とも呼ばれているそうです。私たちには慣れてしまうと極めて感覚が鈍感になり、重要なことも「見えなくなる」とでもいう習性があるのでしょうか。

慣れたために「鈍感になる」のと逆に鋭敏になる場合もあります。これは使徒言行録17章23節に出る、第二回目の宣教旅行に出たパウロがアテネを訪問したときの件です。

道を歩きながら、あなたがたが拝んでいるものをよく見ていると、「知られざる神に」という銘が刻まれている祭壇さえあったのです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを告げ知らせましょう。

旅先で遭遇する新しい場所は不慣れなためか、私たちは周囲に鋭敏になり、いろいろな珍しいものが目に飛び込んで来るものです。使徒パウロにとって旅先アテネの「知られざる神に」という銘がまさにそれでありました。私が日々通勤しているカリタス女子短期大学の最寄り駅、あざみ野駅周辺や、町田市の我が家の周辺は慣れ切っていて何も珍しいものはありません。ですが、ここ会場であるホテル・メルパルク横浜周辺は私にとって初めての場所で、もろもろのことが珍しく感じられ目に飛び込んできます。

私はあるとき、八王子市にある聖パウロ学園というカトリック系の高等学校を訪問しました。学校玄関には大きな垂れ幕が掲げられてあり、関東大会、および全国乗馬大会で優秀な成績を残したことが表示されておりました。この学校は八王子市郊外の簡素で緑に囲まれた所にあり、学校のすぐ裏手には馬場、この高校乗馬クラブはオリンピック出場選手から直接指導を受けるという恵まれた条件にあります。関東地区ではトップ、全国でも常に上位入賞をする凄腕の高校と聞きました。応対に出た進路指導の女性教諭に私はこうもちかけました。「先生、凄いですね。でも、たしか、皆さんが名前を戴いている聖パウロは昔“落馬”したのですよね」。女性教諭は複雑な顔してから「そうでしたね」と応え、二人とも笑いました。

どういうわけか、西欧の美術作品には沢山の「パウロの回心」という絵画や彫刻がありますが、みな「馬から落ちる」パウロが描かれております。矛盾するのですが、関連個所の使徒言行録第9章は以下のとおりです。

ところが、サウロが進んで行ってダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかける声を聞いた。 そこで彼が、「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。~中略~ そこで、人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。~中略~そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に両手を置いて言った。~中略~ すると、たちまち彼の両目からうろこのようなものが落ち、サウロは再び見えるようになった。そこで、彼は身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(3~8,17~19節)

サウロは「馬から落ち」ではなく「地に倒れた」のであって、ここには「馬」は全く出ません。専門家によると、当時の馬は殆どが軍用で、日常生活ではロバなどの小動物が使用されたと言われています。一番の決め手は盲目になったパウロをなぜ「手を引いて」連れて行く必要があったのかという点です。馬がいれば、馬に乗せて運ぶのが常識でしょうが、全く「馬は不在」なのです。ですが、キリスト教世界では「パウロは落馬」という常識が定着しております。本当に不思議なことです。ちなみに「目からうろこ」という日本の諺の原典もこのパウロの回心記事からです。

私たちは聖書を繰り返し読みますが、その中にはあまり根拠のない慣習をそのまま受け入れ、真実を見落とし、謝った事柄を繰り返しの中で「当たり前」として受け入れていることが多々あるように思われます。慣れ切って盲目になる、固定概念のように受け止め「見ていない」部分がある事実との関連を、今日は聖書の文言に顕れない部分、聖書の「行間」と関連させてお話しを進めます。

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