新翻訳事業について

聖書事業懇談会 文化を超えて聖書の行間(神のマイナンバー制度) 浦野 洋司

浦野 洋司氏
2016年3月11日
於:メルパルク横浜

2.文化を越えて・狭い特殊文化から普遍拡大世界へと向かう

子供の頃、私が住んでいた所のすぐ隣に江木という町がありました。朝起きて東の方を見ると、その町が見え、幼い私にとって森の向こうに見える江木町はいつも「世界の果て」でもありました。原始的な感覚とでもいうのでしょうか、あるときの川の向こうや橋の向こう、また山の向こうは別世界、未知の世界、あの世にも通ずる不思議な場所になるのです。私は大人になったら江木町の向こうに行ってみたいという夢を抱いておりました。しかし、大人になってみると私の世界は更に拡大し、江木町の向こう側には更に広い世界が続いておりました。
   聖書の世界も小さな古代ユダヤ社会からより広い世界へと拡大してきたことを意識することがあります。即ち、ごく限られたユダヤ人の小さな集団から、やがてキリスト教となり、大きな普遍世界に拡大したという点であります。この点に関して私は、人知を超えた神の不思議なご計画が存在しているというように思っております。

旧約のミシュティン ブキール(壁に放尿する者)という表現

聖書には奇麗で聖なることだけが並んでいるという印象がありますが、実はそうでもありません。主ご自身もマルコ福音書7章19節で「それは、人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、外に出て行く」と述べる箇所があります。この「外」に関しては新翻訳では注付きで“便所!”と説明されております。余談ですが、数年前、日本映画『テルマエ・ロマエ』が話題になり、それは風呂とトイレに関する興味深い映画でした。中国などからの観光客による爆買が報道を賑わせておりますが、日本のトイレの「乙姫」や「ウォッシュレット」は今や世界中で人気があるのは周知のとおりです。

明治維新までの日本は公衆トイレなどのない素朴社会でした。日本で最初の公衆トイレが誕生したのはここ横浜が最初であったそうです。それは明治4年に当時の政府が外国人の多いこの横浜で国の体面上、道端での放尿を厳しく取り締まり、「放尿取り締の布告」というのを発布したという記録が残っています。
   そういう西欧も近世以前までは似たような状況であったようですが、古代のユダヤ社会には当然のことながら公衆トイレは全く存在しませんでした。
   ところで、旧約聖書にはヘブライ語で「ミシュティン ブキール」という珍しい表現があります(1サム 25章22、34節1列 14章10節16章11節、21章21節、2列 9章8など)。その意は「城壁に放尿する者」で、つまり男性を意味しております。1711年発刊のKJVことKing James Versionはここを“any that pisseth against the wall”と直訳しましたが、その後の現代語訳聖書では殆ど総ては直訳せず「男(性)」と言いかえて訳しております。私の話のポイントは旧約聖書がユダヤ人特有の狭い文化の中で生まれたものであり、それが今、世界共通、より開かれた広い文化、広い社会に通用する普遍的な訳として私たちの手に届いているという事実をここから知ることができるということです。

聖書には奇麗で聖なることだけが並んでいるわけではないと申しましたが、預言者エリヤが列王上18章27節で異教の神々を「下ネタ」であざ笑う記事があります。「大声で叫ぶがいい。彼は神なのだから。瞑想(注ではおしゃべり)しているか、それとも用を足している(便所にいる)か、旅にでも出ているのか」とあります。 また、同じく異教の神々に関してエレミヤ章50章2節では「バビロンは陥落し、ベルは辱められた。マルドゥクは砕かれ、その像は辱められ、偶像は砕かれた」とあり、ここでの「像」や「偶像」という語はアツァーブとギルール、つまり、その元の意は排泄物を指すのだそうです。また列王下1章2節のエクロンの神「バアル・ゼブブ」も(排泄物につく)ハエの神ということになっております。

特に興味深いのは申命記23章12~14節で以下のとおりです。

陣営の外に一つの場所を設け、用を足すときは、そこに行きなさい。武器のほかに杭を用意し、外でかがむときには、それで穴を掘り、再びそれで排泄物を覆いなさい。あなたの神、主はあなたを救い、敵をあなたに渡すために、陣営の中を歩まれる。陣営は聖なるものである。主があなたの中に何か恥ずべきものを御覧になって、あなたから離れ去ることのないように。

ここで語られる神については排泄物が嫌いだから陣営の中は排泄物が見えないように注意しろと言っていることになります。私自身、自分が抱いているキリスト教の神のイメージとは大きくかけ離れた神、特定の狭い文化圏の中の神という印象を強く受けるのですが、いかがでしょうか。

オランダなど海外で活躍の言語学者、村岡崇光(タカミツ)氏は「翻訳とは文化の違いを超えて意味を伝達する作業の「解釈」で「言語の移行」ではないと述べておりますが、真理を穿ったことばと思われます。
   もう一つ、特定社会という点から述べれば、キリスト者とは「洗礼を受けた者」と言うことができますが、ユダヤ教ではそれが「割礼を受けた者」でした。これを前提として読まないと誤解し兼ねない箇所がハバクク書2章15~16節で、以下の文章があります。

ああ、隣人に強い酒を飲ませ 酔わせたあげく、その裸を見ようとする者よ。あなたは栄光よりも恥にまみれる。あなたも酔いしれ隠しどころを現すがよい。

ここでの「裸」も「隠しどころ」も割礼との関わりで理解すべきで、単なる裸以上のニュアンスがある箇所です。つまり、「裸になる恥」ではなく、割礼を受けていないことが露わにされることを大きな罰として述べているのです。この箇所では昔から幾つかの読替えが行われてきました。それはユダヤ教の「割礼」文化から脱却してもっと広い世界に通用する訳への試みであっと言えるかも知れません。勿論、多くの翻訳者はヘブライ語そのもの「無割礼(隠し所)が露わになる」を踏襲します。

しかし、聖ヒエロニムスによるウルガタ訳では「眠ってしまう」となっております。これは、割礼から脱却してユダヤ以外の文化でも通用する優れた解釈と思われます。しかしながら、言語的根拠は不明で、ヒエロニムスの個人的な解釈であるかも知れません。私自身が更に優れた普遍化された訳と思っているのが、「よろめく」という訳です。これは死海写本やギリシア語写本に見られる解釈で、日本語の口語訳の他、RSV、MFT, NAB, NEB, TEV, NJV, NRSVその他多くのバージョンがこの解釈を採用しています。この解釈には言語的にも根拠があり、ヘブライ語の隠しどころ、ブヘ・アラルをブヘ・ラエルと写本家が「アとレ」を逆順に写し間違えたのであって、元々は「よろめく」であったという主張です。しかし、新翻訳は現在のところヘブライ語そのままの訳となっています。

小さい世界から広く普遍的な世界へ・人口の比較

元々小さな部族社会であったユダヤ人の神は汚物にこだわる神でした。またそれは割礼や契約と深く結びついた特殊社会であり、そこからキリスト教の神として世界普遍の神になったとも言えるのでしょう。これを聖書の表記から単純に人口の比較でみるのもわかり易いかと思われます。まずは「318人」という数です。これは捕虜となったロト一族を救出すべくアブラハムが仕掛けた「シディムの戦い」と呼ばれるもので、これに参戦した兵士の数です(創14章14節参照)。「あなたの子孫は星のようになる」(創15章5節)と約束されたアブラハムですが、彼を中心とする集団、あくまでも推測ですが、この頃のアブラハム一族の数は500人とか精々1000人程度ではなかったでしょうか。次に出るのは60万を超える大きな数です。それは出エジプトに関する民数記26章51節に出ます。そこには「登録された者、総数は601,730人」とあります。

私がここで強調し注目していただきたいことは、この小さい集団から全世界に広がった聖書の世界ですが、その翻訳活動に関する最近のデータです。聖書を読むキリスト者の人口は2014年統計で何と22億人を超えております。本当に小さい特殊社会から、世界共通の大舞台へと拡大化、普遍化した現実の中に聖書が存在しているわけです。そして、翻訳に求められるのは狭い文化の壁を越えて、普遍化し広く新しい世界に通用する「質」が要求されるというわけです。United Bible Societiesと日本聖書協会によれば、世界にあると言われる6,600~6,900の言語中2,551言語で翻訳が進められ、2012年現在で新旧両聖書では484言語、新約聖書は1,257言語で翻訳が完了と報告されています。更に、新たな約2,000言語で翻訳が現在進行中ということになっております。

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