新翻訳事業について

聖書事業懇談会 文化を超えて聖書の行間(神のマイナンバー制度) 浦野 洋司

浦野 洋司氏
2016年3月11日
於:メルパルク横浜

エゼキエル書7章17節、21章12節・「膝みな 行く 水」

先に引用したナホム書2章すぐ後の11節は「心は挫け、膝は震え、誰の腰もみなわななき、どの顔もみな青ざめる」という流れでした。 ニネベ住人の恐怖の反応で、ここでの心は勇気の根源で、その心が挫けるとは戦闘が不可能になることを意味していますし、「誰の腰もみなわななき」の「腰」も力の源であるとされています。

古代の戦闘で重要であったのは内面の力で、戦闘はまさに心理戦であったとも言われます。敗戦を意味する怖気づいてしまう内面の表現は典型的な手や脚、膝の様で表されます。例えば、イザヤ書13章7節「それですべての手は萎え、すべての人の心は挫けまどう」や、ダニエル書15章6節「彼の顔は青ざめ、怯えてその脚は弱くなり、膝はわななく」、更にエレミヤ書6章24節「私たちはそのうわさを聞き、手が萎えた」などです。

さて、エゼキエル書7章17節のヘブライ語を直訳すると「手はすべて垂れ下がり、膝みな 行く 水」となり、特にその後半は何か言葉を補わないでは理解するのが難解です。多くの訳はここを「すべての膝は水のようになる」としました。明らかに文脈はナホムと同じで、戦う意思や勇気がなくなり、呻くだけで大声を出すことも戦闘に出ることもできず、脚(膝)は敵に対する恐怖で震えるという状況です。このような状況で「膝みな 行く 水」となれば、明らかにこれは失禁を意味していると思われます。私はどういうわけか、翻訳作業中、死刑囚、浅原彰晃こと松本智津夫が逮捕された瞬間に強い恐怖のためか失禁したという報道を思い出しておりました。

「水のようになる」という訳は外国語でも大多数の翻訳家が採択する訳ですが、これには実は根本的な問題があります。なぜなら、ヘブライ語には日本語の“ようになる”の“よう”に相当する前置詞「ラ」や「ク」がなく、また動詞も「なる」であったら「ハヤ」があるはずですが、ここでは「ハラク(行く)」なのです。つまり、「水のようになる」は意訳に近いものになります。古代訳、ウルガタ訳もfluent aquisで、直訳すれば「水になって(によって)流れる」です。ギリシア語訳は更に強烈な表現で「水(分)で塗る/汚される」で、失禁そのものです。あくまでも推測ですが、多くの訳はその意味(失禁)が分かった上で「水のように(弱く)なる)」としたのは妥協の訳、または不謹慎を意図的に避けた工夫の訳かとも思われます。新翻訳ではヘブライ語に忠実、かつ多少の婉曲表現で「水が垂れる」となりました。

金銀銅・金と銀の問題

2020年は東京オリンピック・パラリンピックの年と決定され、私たちも今から心はずむものがあり、いろいろのことが期待されています。オリンピックとなれば、その栄誉のメダルはどうしても金銀銅ですが、聖書ではこれが銀金銅なのです!

ヨシュア記の6章19節は新翻訳では「すべての金と銀、そして青銅と鉄の器は、主に献げる聖なるものである」と金・銀・銅そして鉄の順の訳(口語訳、文語訳も同じ)で訳されていますが、元のヘブライ語順では、これが銀・金・銅、そして鉄の順なのです。金と銀だけに限っても、エゼキエル7章19節は「彼らは自分の銀を通りに投げ棄て 彼らの金は、汚れたものとなる」とヘブライ語順もそのままで、まず銀、そして金です。一般的に私たちの感覚ではまず「金」そして「銀」であるのに対して、聖書では殆どが「銀」そして「金」(創世記13章2;24章35,53節、出エジプト記3章22節、12章35節などなど)の順です。しかし、聖書が「金・銀」の順で語る場合もあります。即ち、エゼキエル書16章13、17節と28章4節、そしてエズラ書1章9、10、11節の6ケ所ですが、むしろ例外的と言えるでしょう。聖書ではなぜ、金よりも銀が先なのかははっきりしません。当時は金よりも銀の方が珍重されていたといえばそれまでですが、貨幣経済が未発達とはいえ、銀の方が実用的で価値が上であったのか、詳細不明という他ありません。

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