新翻訳事業について

聖書事業懇談会 文化を超えて聖書の行間(神のマイナンバー制度) 浦野 洋司

浦野 洋司氏
2016年3月11日
於:メルパルク横浜

4. 「聖書に書いてない事柄」・まとめ

さて、いよいよ本日のお話も佳境に入ることになりますが、ここで聖書のことばには表わされていない、書いてない事柄についてお話したいと思います。これが本日のメインテーマである「行間」と関連しております。ここでお話する内容は次のようになります。

  1. パンが増える奇跡でパンはどのように増えたのか
  2. 最後の晩餐でのイエスや弟子たちの椅子や食卓はどうであったのか
  3. 私たちが聖書を読むとき、神が私たちに伝えるメッセージの3点です
1)パンが増える奇跡で、パンはどのように増えたのか

パンを増やす奇跡は聖書の中の代表的な奇跡です。即ち、五つのパンと魚二匹が五千人の食事として増える奇跡、これはマタイ14章13~21節、マルコ6章32~44節、ルカ9章10~17節、ヨハネ6章1~15節に出ます。そして、七つのパンと小魚が四千人の人に食べられる奇跡はマタイ15章32~39節、マルコ8章1~10節と全四福音書にわたり出るという珍しい奇跡です。

マタイ14章19~20節はこうなります。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天に目を上げて祝福し、そしてそれらのパンを裂いて弟子たちに、さらに弟子たちは群衆たちに与えた。 すると皆が食べた。そして満腹した。

ギリシア語で、本箇所に出る動詞はただ3つ、εὐλόγησεν 、κλάσας 、ἔδωκεν、ウルガタ訳でもbenedixit、fregit、 dedit、つまり、祝福した、裂いた、(そしてパンを弟子に)与えた(そして弟子は群衆に)で、「祝福した」を除けば主要動詞は「裂いた」と「与えた」の2つだけです。具体的にパンがどのように増えたのかは全く聖書には書いてありません。その結果、諸々の解釈が存在しています。史実とは全くかけ離れたお話であるとか、これは単なる比ゆで奇跡ではないとか、またパンとはイエス自身だとか、パンが増えたのでなく、ただ群衆が「満足しただけ」(満たされたと感じた)などなど解釈さまざまです。四福音書全体に残された重要なこの奇跡が単に「気分」の問題とか、単なる比ゆとして片づけるわけにはいかないでしょう。繰り返しですが、肝心の「どのように分けたか」「いかにいつ増えたのか」は聖書のことばには全く隠されています。

私が大学生のとき、それは東京オリンピックの直後でしたが、パゾリーニ監督によるイタリア映画、『マタイによる福音』という映画を見ました。極めて印象に残ったのが、このパンを増やす奇跡のシーンです。パゾリーニ監督の解釈をあえて命名すれば「瞬間増殖説」となるでしょう。5千人分のパンと魚が小山のように無から有に瞬間的に増えるのです。今考えると滑稽ですが、その時は音楽効果もあり映画の中で大いに感動したことを覚えています。

聖書には書いてないのですから、推測の域を出ないのですが、私自身の解釈はこうです。即ち、「信仰の中で少しずつ増えた」ということになるかと思います。その根拠はまず、旧約聖書にあります。

私の解釈を支持する話は旧約聖書に多数あると思います。例えば、紀元前9世紀、列王記上に出る(メシア、イエスの先駆者)エリアによる似たような奇跡です。エリアは残り少ない粉と油を寡婦に与えるのですが、列王記上17章14節は以下のとおりです。

やもめは行って、エリアの言葉どおりにした。それで彼女もエリアも、彼女の家の者も幾日も食べることができた。主がエリアを介して告げられた言葉どおり、壺の小麦粉は尽きず、瓶のオリ-ブ油がなくなることもなかった。

つまり、瞬間増殖ではなく、信じて日々暮して行く中で起きた徐々なる奇跡でありました。弟子エリシャも同じように、寡婦に尽きない油を与えますし(列王記下4章3節)、また人々に尽きないパンも同じように与えています(列王記下4章42節)が、すべて瞬間の増殖ではありません。

旧約時代ではなく、近代現代にも二つの証言があります。50年ほど遡りますが、イタリアのフィレンツェに女性神秘家マリア・ワルトルタ(1897~1961)という女性がおりました。その生涯の殆どをベッドの上で過ごした人ですが、聖書物語に関する幻を受け、数百枚のノートを残しております。その中に、パンの奇跡に関する記述があります。そこには聖書には出てこない子供の存在が大きな意味を持って書かれています。つまり、弟子たち大人はパンの量が大勢の人には不十分という意識で、主のおことばにもかかわらず信じられず動けないでいる中、子供は信じて率先して配り始めるのです。子供の信じきった行動を見て、勇気を得た弟子たちもこれに続いてパンを配り続けます。信じて行動している内に、結果として気がついたら「奇跡」であったという書き方なのです。この方が瞬間増殖よりずっと自然に思われます。つまり、奇跡は魔法使いのような瞬間の出来事でなく、信じて動く中での徐々なる変化ということになります。

私の職場であるカリタス女子短期大学の創立者はカナダ、ケベック州のマルグリット・デュービル(1701~1771)という聖人ですが、その伝記の中にも似た話があります。誰も入っていないはずの倉庫にあった粉がマルグリット・デュービルの「もう一度見て来てください」という言葉で人が行ってみると、増えていたということが繰り返された話です。この場合も一度に粉が増えたのではなく、少しあったものを信じて何回も使用している間に、結果として驚くほどの量の粉を受けたという奇跡なのです。つまり、聖書のパンの奇跡も「(信仰の中)少しずつ、気がつかない間に」ということであったと思います。

余談ですが、私の家では「ローマ時代」というと二千年前のことでなく、私がローマに留学していた1980年から1983年を指します。そのわが家の常用句「お父さんのローマ時代」に、私はマキシミリアム・コルベ神父の列聖式に与るという栄誉を得ました。そこにはアウシュビッツでコルベ神父の身代わりによって解放、危うく断食刑で命を落とすところを生きのびたポーランド人男性も列席しておりました。ある方のことばがあります。コルベ神父が自ら名乗り出てこのポーランド人男性の「身代わりになって死んだ」のは決して人生一回の突発的な一大決断によるものではありません。つまり、その瞬間の出来事だけでなく、愛の実践を日々実行していた延長線上にある、信じて動く「愛の実行」そのものであったというものです。まさにその通り、突発、瞬間の出来事ではなかったのでしょう。わたしたちも一瞬間の奇跡で救われるというよりは、生きて来たそのとおり、生き様そのままの延長線上での最期を迎えるのではと思っています。

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