2015年1月
ガリラヤ湖を一望することができる山上に建つ教会。イエス・キリストが山上の垂訓を語られた場所だと伝えられる。湖面から125mの小高い山。雨季には様々な野の花が咲き乱れる美しい場所。八角形ドームのステンドグラスには八つの祝福の言葉がラテン語で記されている。
祝福の山教会
撮影:横山 匡
2015年2月
イスラエルで一番大きな平原。ギルボア山から見ると麓にハロデの泉があり、正面にモレの丘、その後ろにイエスが若き日を送ったナザレの村、また変貌の山とも言われるタボル山がある。イズレエルとは「神、蒔き給う」という意味で、文字通りイスラエル最大の穀倉地帯。
イズレエル平原
撮影:横山 匡
2015年3月
イエスが「ホサナ」と迎えられて、エルサレムに入城したのが、この門だと伝えられている。終末の日にメシアが入城するという伝承を恐れたイスラム教徒のスレイマン大帝が、1541年に閉鎖した。足の不自由な男をペトロが癒した「美しい門」(使徒3:2)もこの門だと言われている。
黄金門
撮影:横山 匡
2015年4月
「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった」(ヨハネ19:41)エルサレムの北の城外にある岩山が髑髏に見えるところから、1883年にイギリスのゴードン将軍がゴルゴダの丘と同定した。すぐそばにイエスが葬られたとされる園の墓があり、プロテスタント信徒の巡礼地となっている。
ゴルゴダの丘
撮影:横山 匡
2015年5月
イエス・キリストが伝道をはじめられた地。「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ4:15~16)ガリラヤ湖はヘブライ語で「ヤム・キネレット」と呼ばれ、「竪琴の形をした湖」という意味。
ガリラヤ湖の夜明け
撮影:横山 匡
2015年6月
エルサレムのダビデの町南端にある池。ギホンの泉からヒゼキヤの水道を通った水が貯えられた池。イエス・キリストは生まれつき目の見えない人をこの池に行かせて癒した。
シロアムの池
撮影:横山 匡
2015年7月
ダマスカス郊外で、キリストの光に打たれて目が見えなくなったサウロ(パウロ)は、アナニアに手を置かれて目からうろこのようなものが落ち、キリストを伝える者に変えられた。ダマスカス旧市街の東門近くの、アナニア教会地下に礼拝堂がある。
アナニアの家の教会
撮影:横山 匡
2015年8月
囚人となってでも、ローマに行くことを願ったパウロは、マルタ島で遭難した後、航海ができる春を待って、ローマ行きの船で出港する。プテオリの港で下船。この町で同信の兄弟を見つけて7日間滞在する。港のそばに立つ聖マリア教会の裏に「パウロ上陸記念碑」が建てられている。一行はここから陸路北上し、アッピア街道を通ってローマ入りする。現在はポッツオーリと呼ばれている港町。
プテオリの港
撮影:横山 匡
2015年9月
パウロはヨーロッパ伝道に導かれ、フィリピを経てマケドニヤ地方の首府テサロニケにやって来た。多くの信者が得られたが、それを妬んだユダヤ人の扇動 によって暴動が起こり、ベレアに逃れた。(使徒17章) 現在はアテネに次ぐギリシア第2の都市。
テサロニケのアゴラ遺跡
撮影:横山 匡
2015年10月
ケンクレアイはコリントの東、約10キロにある古代の港。パウロは第2回伝道の旅で、コリントに1年半滞在した後、この港からエフェソに向かうに際して誓願を立て剃髪した。(使徒18:18)また、パウロは「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します」とローマの教会に宛てた手紙に書いている。(ローマ16:1)
ケンクレアイのフェベ教会跡
撮影:横山 匡
2015年11月
死海北端近くの洞穴から、ベドウィンの少年が死海文書を発見した。20世紀最大の考古学的発見として世界中を驚かした。羊皮紙に書かれていた文書は、紀元前3~2世紀に筆写されたヘブライ語の旧約聖書やその他の宗教文書だった。
クムラン洞窟
撮影:横山 匡
2015年12月
カイサリアの港街を建造したヘロデ王の宮殿があった場所。ヘロデ王の死後はローマ総督の官邸であった。パウロはローマに送られるまでの2年間、カイサリアに幽閉されていたが、フェストゥス総督やアグリッパ王に呼び出されて弁明した場所がこの官邸だったと考えられる。(使徒25~26章)
カイサリアのローマ総督官邸跡
撮影:横山 匡