「聖書は世界のベストセラー。一番読まれている本です。」 宗教学の講師がそう言うので、自称読書家の私は電車に乗って隣の隣の市の書店を訪ねて聖書を購入した。旧約・新約がセットになった重たい聖書を膝の上に開き、通学電車の中で毎日読み、世界のベストセラーを読破した。 内容は良く理解できなかったが、世界のベストセラーを読了したことに、ただただ満足し、聖書をクローゼットの奥にしまった。 数年後、縁があってゴスペルを歌うようになり、再び聖書を開くようになった。 ゴスペルのレッスン中にはバイブルスタディという時間がある。ゴスペルの歌詞は聖書が元になっているため、どういう意味なのかを学ぶ時間だ。 「自分の口から出す言葉には、他人の書いた歌詞であろうと責任がある。」合唱の先生が言っていたのを思い出し、真剣に聞いた。そして、意外にもこの時間が楽しみになっていった。 聖書には、神さまが人間に伝えたいことが書かれている。私はそれを聞いてくれる人たちに伝えるために歌うんだ、と思って歌っていた。 そうしてゴスペルを20年以上歌い続けた結果、私は洗礼を受けることになった。 ただただ楽しいだけで続けてきたゴスペルだが、たびたび私の琴線に触れ、特別なものになっていった。歌詞が私の中に蓄積した結果で、何か重大な事件や病気があったわけでもない。「私は信じてる」と公言できることを歌いたいと思ったし、何よりもゴスペルを歌い続けたいと思っていた。 でも、相変わらず聖書は難しい。神さまはどうしてもっとわかりやすく伝えてくれなかったんだろう。時代や文化が違うから仕方ないのかと思って諦めそうになっていたとき、ある人が教えてくれた。「聖書は神さまからのラブレター。」と。 いやいや。こんなに分厚いラブレター、あまりにも重すぎる愛にドン引きですけどね・・・。 聖書は神さまが私たち人間を求め、そばに置くために創造し、そして裏切られても見守り続け、愛を送り続けてくれた日記であり、ポエムであり、手紙。そして将来の約束。 つまり、重たいほどの愛が込められたラブレター? そんなことを思い、ふふっと笑いながら聖書を開き飛び込んできた聖句がこちら。 「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、・・・」(出エジプト記20:5) え?まさか・・・。 見返りを求めずストーカーのように私を愛してくれている神さま。 どうやら受け取ってしまったラブレターをしっかり読まずに返すわけにはいかないようです。