野生クリスチャンですが、何か? ーーーーーーーーーーーーーーー 教会には所属していない。 たまにクリスチャンのイベントに参加する。 オンラインのバイブルスタディは好き。 リアルの奉仕活動などは気が向いた時だけ。 ただし、愛読書は聖書。 こんな感じで、ずっとちゃらんぽらんなクリスチャン生活を送っていた。が、それでもいいと思っていた。 世の中には、いろいろな形で神様と繋がることができる。コロナの影響で、ますますオンライン化した現代。聖書が書かれた時代とは、全く異なる。基本的なことは変わらないとしても、表面的なことは変わって当たり前ではないか。 教会に通っている人だけが正解か? 奉仕活動している人だけが偉いのか? 献金している人だけがクリスチャンなのか? もともと教会という場所に馴染めなかった。どんなに救われたと思えても、教会は人間の集まり。嫌なことも面倒なことも起こる。ビジネスチャンスもないので、どんなに時間を使ってもこの世の報酬は期待できない。 そんな時、「野生クリスチャン」という言葉を知った。なんて気楽で自由なのか! 好きな時に好きなように繋がればいい。自分なりの信仰が嬉しかった。 しかし、「自分なり」という部分に恐ろしさが隠れている。 ググっても、自分の頭で理解できる解釈しか認めず、自分の好きな部分しか聖書を読まない。だから箴言と福音書に偏る。 が、これでもいいと思っていた。全ては神様のご計画だし、私にとって必要なことなのだと正当化していた。野生クリスチャンであることがカッコいいと思っていた。 神様の計画と悪魔のささやきは、判断が難しい。 今の私は、仕事が休みの時だけ日曜礼拝に参加して、普段は木曜礼拝に行っている。また、分かち合いグループを月に2、3回ほどオンラインで実施して、他のクリスチャンと交わりを持っている。これは本当に大切な時間だと感じている。 自分だけの世界にいると、なんと偏りのあることか! 牧師の方や他のクリスチャンと話すだけで、解釈が広がる。聖書の読む箇所が増える。これは素晴らしい機会だと思った。 クリスチャンに完璧はいない。みんな、人間だから。段階は違っても、いつも霊的な成長期を迎えている。だからこそ、交わりが必要なのだと感じた。 野生クリスチャンとして意気揚々と過ごしていた頃は、まさか自分がまた教会に通うようになるとは思いもしなかった。しかし、これも必要なこと。神様が与えてくださったのだ。 調子が良い時は神様を感じることができるが、この世に流れることもある。海の波のような信仰に、今日も己の弱さを感じる。 だが、それを認めることができれば、それでいいのだ。強くないから助けてもらえる。弱さを認めるから与えてもらえる。このシンプルな関係性に感謝しかない。 (1101文字)