人間失格 ーーーー イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。(マタイ26-48・49) ユダがイエスに接吻したシーンである。 そう、ユダ(男)がイエス(男)に接吻!! 現代版BL(ボーイズラブ、男性同士の恋愛)ではないのか!? と、国語辞典の卑猥な言葉にマーカーを引く男子中学生みたいなノリで、私は「接吻」という言葉を赤丸した。胸が熱くなるのをどうすることもできない。そう、私は罪深い腐女子である。 この卑しい趣味をどうすることもできず、それでも神様は私を赦してくださっているのだと開き直って、邪な目で聖書を読む。そんな人間が世界中にどれだけいるだろうか。(あああ、どうか、お許しください。) 仲の良い牧師の方に、 「接吻という文字が気になって、もっと大事なイエス様が十字架にかかったシーンがぜんぜん頭に入ってきません・・・」 と相談したことがあった。自分の中では、最上級の罪の告白であった。冷や汗ものだったが、そんなところに引っかかる人もいるんだね、と優しく受け入れてもらった時は心底ホッとしたものだ。 さて、私はこのモヤモヤを抱えたまま数年を過ごした。すっかり忘れている時もあったが、「最後の晩餐」「十二使徒」「裏切り者」などのキーワードが出てくると、ついつい思い出してしまう。自分の思考が止められない。(神様、これも罪でしょうか。罪ですよね。) しかし、つい最近になって、私と同じ目線で同じ想いを抱えていた人を知ってしまった。 『人間失格』の太宰治である。 なんということか! 何度も自殺未遂や心中未遂事件を起こしたヤバい奴である。ハンサムだとは思うが、メンヘラで、構ってちゃん。しかしながら、日本を代表する偉大な作家の一人ではある。 この太宰治の短編小説『駈込み訴え』の存在を知ってしまった。自暴自棄になったユダの重すぎる愛が、リアルすぎて怖い。本作を読んでみるとわかるが、ずっと一人でしゃべってる。これは確実にBLを彷彿とさせる。 太宰と同じ感覚の私って、凄くないか!? と、ちょっとドヤ顔したい気持ちもある。分厚い聖書の中から、このシーンを選んで、わざわざ小説にするなんて、やるじゃないか、という気持ちさえある。何様目線だろう(笑) とにかく、『駈込み訴え』を読んでドキドキしてしまった。なんてふしだらなクリスチャンなんだ・・・と感じながらも、この暴走を止めることもできない。 もう赦してほしい。この世のものに流されてしまうこと。同性愛に対して後ろめたい気持ちがあり、それをエンタメとして楽しんでいること。スマホで漫画ばかり読んで、聖書を読む時間が圧倒的に短いこと。久しぶりに読んだ近代日本文学をBLとして読んだこと。 聖書が愛読書だと胸を張って言えるが、健全な思考ではない。人間失格である。 (1199文字)