初めて自分のお金で「聖書」を買った時、母は「漬物石みたいに分厚いのを選んだのね」と目を丸くした。  まさかの「漬物石」という喩えに私は思わずふき出してしまったものだ。和食を好む母の日本らしい喩えである。海外ならば「この本はどんな石に喩えられるのだろう」と少し興味が湧いたものだ。  兎にも角にもその聖書は、国語辞書が痩せっぽちに見えるほど分厚かった。なぜなら「和英対照の聖書」だったからである。和文と英文がどちらも記載されている為、横幅も重量も通常の聖書の二倍はある。  我が家ですっかり「漬物石」の愛称で親しまれたその「聖書」は「私が私への贈り物」として買った。あれは十代の終わり、二十代を迎える時のことだ。人も環境も変化の多い時期だった。あれから何年経っても傍らにあり、迷った時には心の支えになってくれている。重厚な内容の本は世界中に存在するが「ワインのように芳醇な言葉が綴られ、なおかつ愛と希望に満ちた本」といえば「聖書」をおいて他にはない。  和英対照の聖書を選んだのには二つの理由があった。一つは美しい英文を朗読したかったから。二つ目は創作をする際に実に高尚なインスピレーションを与えてくれるからだ。この和英対照の聖書は実に面白い。和文の方が語彙が美しいと思うこともあれば、英文の方が語感が良いと感じることもあり、一冊で両言語を楽しむことのできる二度嬉しい仕様であった。  また私は「今日はイヤなことがあったから、明日の運勢をちょっと占ってみようか」などと俗っぽい動機で聖書をパッと開き、目に飛び込んだところを朗読する癖がある。「聖書を星占いのように扱って良いものか」とも思うが、私にとってはこれ以上なく日常に馴染んでいる本なのである。辛い時や悩んでいる時に限って、今の自分を慰め励ましてくれる言葉と出会うからだ。 「ねぇ、神様。明日はステキなことが起こるかしら」  心の中で問いかけながら、いつものように聖書をパッと開く。  今から二年前のこと、いつものように相棒の書を開いた私は、生涯忘れ得ぬ御言葉に出会った。  詩編四十二の名句だ。 「なぜうなだれるのか、私の魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め」 「Why am I so sad? Why am I so troubled? I will put my hope in God,」  和文と英文。交互に何度も口に出して読んだ。  言葉がこれほど「重い」と感じたことは無かった。  その尊い言葉で、項垂れるほどに重くのしかかっていた苦悩が取り払われ、その時たしかに心が軽くなったのだ。  聖書は日々を賢明に生きる私たちに、光の道しるべを与えてくれる本である。  言葉の重みは魂の重みであると、古き時代から新しい時代の私たちへ、石のように静かに語りかけているのだ。