「あがない」って何ですか?

弁償するという意味です。

 「あがない」って、とってもむずかしい言葉ですね。  みなさんが、友だちのおもちゃをこわしたとしますね。 申し訳ないから弁償しますね。それが「あがない」です。
旧約聖書の時代、人間が神さまの思いに反して悪いことをしたとします。すると、本当はその人の命でつぐなわなければならなかったのですが、そんなことをしていたら命がいくつあっても足りません。
 そこで、人間の代わりに動物を差し出して、その動物の命で神さまにゆるしていただいたのです。これが「あがないの供え物」です。神さまの教えに逆らってしまった→弁償しなければならない→あがなわなければならない→自分の命で弁償できない→身代わりの「供え物」で弁償し、「あがなっていた」わけです。
 新約聖書の時代、人間は神さまの目に悪と映ることを行ってしまいました。本当は、人間自身が神さまに弁償する(あがなう)べきでした。でも、誰も弁償できませんでした。
 そこで、イエスさまが十字架にかかり、人間の代わりに「弁償(あがない)の供え物」となってくださったのです。だから、イエスさまはわたしたちの代わりにわたしたちの失敗を弁償してくださった・・・それが十字架なのです。

「アドベント」って何ですか?

クリスマスの前の 4 回の日曜日の期間のことです。

 クリスマスは12 月25 日、毎年変わらずにやってきます。そして、人々はそのクリスマスを楽しみに待ちながら準備を行ってきました。その準備の期間をアドベントと呼びます。
「アドベント」という言葉は「アドベントス」というラテン語から来たもので、もとの意味は「到来」でした。イエスさまの誕生がいよいよ「到来するよ」という意味でアドベントと名付けたのでしょう。
 アドベントはクリスマスより手前の4 回目の日曜日から始まります。一番早いアドベントは 11 月 27 日、一番遅いものは 12 月 3 日から始まります。
 アドベントになると、アドベント・キャンドルを 4 本用意し、第1日曜日に一本目のろうそくを灯し、日曜日ごとに一本ずつ灯すろうそくを増やしていきます。4 本灯った日曜日の週に、12 月 25 日クリスマスが来るのです。
 アドベントに入ると、クリスマス・ツリーを用意して点灯式を行ったり、アドベント・キャンドルを用意したり、常緑樹の枝を丸くまとめてアドベント・クランツを作ります。また、アドベント・カレンダーを毎日めくって、クリスマスの来ることを楽しみに待つこともあります。

「インマヌエル」って何ですか?

「神さまはわたしたちと共におられる」という言葉です。

 イエスさまをマリアさんが身ごもった時、天使は婚約者のヨセフさんにこのように伝えました。
 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイによる福音書  1 章 21 節)
 その出来事は、旧約聖書に書いてあったことが実現した出来事であるとマタイによる福音書は続けます。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイによる福音書 1 章 23 節)
 「イエス」という名前は「主は救い」という意味です。
 「神さまは救い」という赤ん坊が生まれてくるということは、旧約聖書のイザヤ書の預言が実現することだとマタイは考えたのです。
 わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ書  7 章 14節)」
 このイザヤ書の預言が実現した出来事こそ、イエスさまのお誕生だったとマタイによる福音書は語るのです。

「イースター」って何ですか?

イエスさまがよみがえった日のことです。

 イースターは、十字架の上で息を引き取ったイエスさまが三日目の朝に「よみがえられたこと」をお祝いするキリスト教の中で最も大切な日です。
 クリスマスは毎年 12 月 25 日と決められています。これを「固定祝日」と呼んでいます。しかし、イースターは毎年、「春分の日の直後の満月の次の日曜日」と定められているので、最も早い年で 3 月 22 日、最も遅い日付で 4 月 25 日となります。これを「移動祝日」と呼んでいます。
イエスさまが無実の罪で十字架につけられたのが、金曜日の朝 9 時で、午後 3 時に息を引き取られたと聖書には記されています。そして墓におさめられたのが金曜日の日没の直前、そして三日目の日曜日の朝によみがえられた、というのがイースターのお話です。
 春分の日はゲルマン民話の春の女神オスタラの祝祭日でもありました。そのオスタラが変化してドイツ語では「オステルン」、英語では「イースター」と呼ばれるようになったと言われています。
 死んでいたのによみがえった、ということで「卵」がシンボルとして使われ、また春分の日を境にうさぎが子育てするということから、「うさぎ」がイースターのシンボルともなりました。

「キリエ・エレイソン」って何ですか?

「主よ、あわれんでください」という言葉です。神さま、救ってください」という意味です。

 賛美歌の歌詞で、「キリエ・エレイソン」という言葉が出てきます。これは新約聖書の言葉であるギリシャ語で、「キリエ」が「主よ」を表し、「エレイソン」が「あわれんでください」という意味から来ている言葉です。
 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。(マタイによる福音書 17 章 14~15 節)

 「あわれむ」というのは、「かわいそうに思う。気の毒に思う。同情する」という意味と「慈愛の心で接する」という意味があります。
 上記のマタイによる福音書の場合、「主よ、どうぞ息子をかわいそうに思って、愛に満ちた心で接してやってください。かなうならば、私の息子を治してやってください。」という思いをこめた「キリエ・エレイソン(主よ、あわれんでください)」だったのでしょう。
 この「キリエ・エレイソン」は現在の賛美歌の中で最も古くから歌われてきた歌詞です。3世紀の頃にはお祈りとして使われてきました。『こどもさんびか(改訂版)』には27「キリエ・エレイソン」がのっています。

「クリスマス」って何ですか?

イエスさまの誕生日のことです

 クリスマスは英語で Christmas です。この Christmas は Christ と mas からなる言葉です。Christ(クライスト) はキリストのことです。キリスト・イエスを表しています。そして mas はミサ、礼拝のことです。
 だから Christmas というのは、もともと「キリストの礼拝」という意味でした。つまり、キリストとしてお生まれになったイエスさまの誕生をお祝いする礼拝・・・それがクリスマスだったのです。
 今、クリスマスの日を 12 月 25 日と定め、その前の日、24 日をクリスマス・イブと呼んでいます。「イブ」とは祭りの前夜や前夜祭のことをさしています。つまり、クリスマス・イブとはイエスさまのお生まれになったクリスマスの前夜祭ということになります。
 聖書によると、イエスさまがお生まれになったのは、深夜から未明にかけてであったようです。それは羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていたからです。(ルカによる福音書 2 章 8 節)
 そこで教会ではクリスマス・イブ(つまり前日の夜)に礼拝を守り、家に帰って休むとクリスマスの日になり、朝にはすでにイエスさまがお生まれになっているというお祝いの仕方をしているのです。

「シャローム」って何ですか?

「平和」という意味です。「こんにちは」「さようなら」などの挨拶の言葉としても使います。

 旧約聖書のヘブライ語では「平和」という意味です。礼拝の中では「平和のあいさつ」というときがあって、その時それぞれの人が握手をしながら「シャローム」といいます。
 「あなたに平和が与えられますように」という意味を込めてシャロームというのです。
 また現代のヘブライ語では「こんにちは」「さようなら」という挨拶に「シャローム」を使っています。でも、ただ単に「こんにちは」なのではなくて、「こんにちは、今日一日にもあなたに神さまの祝福が与えられますように」という願いがこもっています。
 「さようなら」も単に別れの挨拶ではなくて、「あなたにあふれるような豊かな祝福がありますように」という意味がこもっています。

「ハレルヤ(アレルヤ)」って何ですか?

「神さまをほめたたえましょう」という意味です

 「主を賛美せよ(神さまをほめたたえましょう)」という意味です。もともと旧約聖書が書かれているヘブライ語の言葉でした。特に賛美歌集である「詩編」の最初や最後につけて、神さまの言葉に応える(応答する)言葉として使われてきました。ちなみに「ハレルヤ」はヘブライ語、「アレルヤ」はカトリック教会が用いてきたラテン語です。
『こどもさんびか(改訂版)』には 30-1「ハレルヤ」、 30-2「ハレルヤ」、41「ハレルヤ、うたえ」と 3 曲がおさめられています。

「ペンテコステ」って何ですか?

聖霊が降って教会が始まった教会の誕生日です

 無実の罪で十字架の上で息を引き取られたイエスさまは、三日目の朝よみがえられました。よみがえったイエスさまは 40 日間、お弟子さんのもとに現れましたが、40 日目に天に帰られました。これを主イエスの昇天と呼びます。
 せっかくよみがえったイエスさまと一緒にいれたのに、イエスさまが天に帰ってしまって、お弟子さんたちはとても落ち込んでしまいます。
 しかし、イエスさまの復活から 50 日目、聖霊がお弟子さんたちの一人ひとりに降りかかり、お弟子さんたちは神さまの力と愛をいっぱいに受けて、勇気百倍となりました。そして、姿は見えないけれど、イエスさまはいつも共にいてくださる、という確信を得て、お弟子さんたちはイエスさまのことを、熱心に積極的に「語り」始めました。 これが教会の誕生となりました。聖霊の力を受けて勇気百倍となったお弟子さんたちの教えに、多くの人が感銘を受けて洗礼を受けて教会のメンバーとなったのです。
 キリスト教では、イエスさまがお生まれになった「クリスマス」と、イエスさまがよみがえられた「イースター」、そして聖霊が降って教会が生まれた「ペンテコステ」を三大祝日といって、大切に守っています。

「ホサナ」って何ですか?

「神さま、救ってください」という意味です。

 旧約聖書の言葉で「神さま、救ってください」という意味です。イエスさまがろばに乗ってエルサレムに入城したとき、人々はイエスさまを歓迎するために「ホサナ!」と口々に叫びました。
もとの意味は「救ってください」ですが、人々はイエス さまに「救ってください」と叫びながら、救ってくださる 方が来られたと歓迎の意味へ変わっていったのでしょう。

「ヨハネ、ルカ、マルコ」って誰ですか?

福音書を書いた人々の名前です。

 「ヨハネによる福音書」「ルカによる福音書」「マルコによる福音書」を書いた人々のことです。
 ヨハネはイエスさまの 12 弟子のリストの中に名前がのっていて、そのお弟子さんではないかといわれています。しかもイエスさまに特に愛された弟子とヨハネによる福音書では記されています。
 また「ヨハネの手紙一」「ヨハネの手紙二」「ヨハネの手紙三」の著者もこのヨハネといわれています。
 ルカは、12 弟子の次の世代のお弟子さんで、医者だったのではないかといわれています。ルカは「福音書」だけではなく、第二巻の「使徒言行録」も書いています。
 マルコも第2世代のお弟子さんだと思われますが、最も古い福音書、「マルコによる福音書」を執筆しました。
 質問の三名のリストにはのっていませんが、マタイも「マタイによる福音書」を記した人です。この人は 12 人のお弟子さんのリストの中に含まれています。
 「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ」と福音書の順番に覚えたら便利かも知れませんね。

「レント」って何ですか?

イエスさまが苦しみを受けられた 46 日間のことです。

 イエスさまが無実の罪で十字架につけられて、息を引き取って墓におさめられ、三日目によみがえられたイースター。その日から数えて 46 日前のことを、イエスさまが苦しみを覚えられた「レント(受難節)」として過ごします。
 「レント(受難節)」は四旬節とも呼ばれています。レントの期間の 46 日間の内、6 回の日曜日(主の日)を除いて 40 日だからです。
 40 というのは、聖書では意味のある数字で、旧約聖書でノアの箱舟の時に雨が降り続けたのが 40 日 40 夜、エジプトを脱出して奴隷から自由になった人々が、荒野をさまよったのが 40 年、イエスさまが荒野で誘惑を受けたのが40 日間とよく使われる数字です。
 イエスさまの苦しみを覚えるレントにもこの 40 日というのを用いたのでしょう。
 レントの最初の日を「灰の水曜日」といい、人間がちりから造られ、再びちりに返る存在であることを思い起こしながら、受難節の始まりを覚えます。
 このレントから 7 本のろうそくを立てて、毎週一本ずつ消していきます。最後の一本が残った日曜日の週の金曜日にイエスさまは十字架につけられたのです。

「交読詩編」って何ですか?

旧約聖書にのっている「詩編」を交互に読むことです。

 意外なことに、聖書には「賛美歌」がたくさんのっています。新約聖書で有名な賛美歌は「マリアの賛歌(マリアさんがイエスさまを身ごもったときに、神さまを賛美し、感謝のお祈りを捧げた言葉です。)」です。他にもたくさんのっています。
 旧約聖書で有名な賛美歌は「詩編」です。詩編は 150 編からなる大きな賛美歌集で、昔は節をつけて、楽器で伴奏しながら「歌って」いたようです。詩編の最初に、「どのような調で、どのような楽器を使って歌う」という指示の残っている詩編もあります。
 しかし、残念ながら現在の「詩編」には楽譜が残っておらず、どのようなメロディだったのかはわかりません。それでも、賛美歌だった時代のなごりで、今は詩編の「交読」を行っているのです。
 それは詩編を歌うときに、先唱者(先に歌う人)がメロディを歌って、会衆がその節を真似して歌っていく、という形式が多かったためです。
 だから今でも詩編を「交読」しています。先に司会者が読み、二文字下がった所を会衆が読むという「交読」のスタイルは、「詩編」が歌われていた時代からの伝統なのです。

「光の子、光の中」って何ですか?

イエスさまに守られている状態を「光の中」といい、イエスさまに守られて生きる人、イエスさまに従って生きている人を「光の子」と呼んでいます。

 聖書の中に、このような言葉があります。
 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソの信徒への手紙 5 章 8 節)
 ここでいう「主」とは「イエスさま」のことです。あなたがたは、前には「イエスさま」のことを知らずに生きてきました。それは、まるで暗闇の中を歩くようなものでした。
 でも、今はイエスさまと出会い、イエスさまに従い、イエスさまに守られて生きています。
 イエスさまは、わたしたちを照らす「光」のような方です。(⇨「三位一体」って何ですか?参照)だから、わたしたちは、イエスさまに守られて、イエスさまの「光の中」を生きる「光の子」なのです。
 もちろん、子どももおとなも神さまから見れば、みんな神さまの子どもですから、おとなのわたしたちも「光の子」として「光の中」を歩むことができるのです。

「御心」って何ですか?

「神さまの心」のことです。

 神さまの「心」って、どうやって分かるのでしょうか? 直接神さまの「心」を知ることはできません。
 でも聖書の中には、神さまが「どう思っておられるのか」、「神さまの心」はどこにあるのかが、たくさん書かれています。
 例えば旧約聖書の「十戒」には神さまの「心」がのっています。
 ・神さま以外のものを神さまとしてはいけませんよ。
 ・お父さん、お母さんを大切にして下さい。人のものを盗んではいけませんよ。嘘をついたらいけません。
 ・人のものをほしがったらいけませんよ。
 (出エジプト記 20 章 2~17 節 こども用塚本訳)
 また新約聖書にも、たくさん神さまの「心」がのっています。
 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネによる福音書 15 章 12)
 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。(ヨハネによる福音書 15 章 14 節)
 聖書を読むと、「神さまの心」とたくさん出会えますよ。

「聖書」はどうやってつくられたのですか?(誰が書いたのですか?)

人間を通して、神さまの言葉が書かれたものが「聖書」です。

 聖書は旧約聖書、新約聖書あわせて 66 冊の書物からなります。それぞれ成り立ちが違っています。
 あるものは、神さまの言葉を聞いた人々が語った言葉が
 「聖書」となりました。それは旧約聖書の「預言書」として収められています。
 また、イエスさまや神さまの愛にふれて、その大きさや素晴らしさを感じた人々が書いた言葉も「聖書」となりました。旧約聖書の歴史語、新約聖書のイエスさまや教会の物語(福音書、使徒言行録)がそれにあたります。
 イエスさまの素晴らしさを伝えたくて、たくさん書いた「手紙」も聖書になりました。新約聖書に多くの「手紙」が残されています。
 神さまを賛美したり、お祈りした言葉が「詩編」などに残されています。
 このように成り立ちやスタイルはそれぞれ違っていますが、その時代の人々を通して神さまが語りかけてくださった言葉、それが聖書なのです。

「賛美歌」と「讃美歌」の違いは何ですか?

漢字の表記が変わって、「讃美歌」から「賛美歌」へと変更されたのです。

 「賛美歌」とは「神さまをほめたたえる歌」という意味です。昔は、「讃美歌」と表記されていました。
 1956 年、国語審議会によって「同音の漢字による書きかえ」がすすめられました。それは昔の表現で難しい漢字を使っているものを、より分かりやすい簡単な漢字に置きかえようというものでした。
 その中に、「讃美」→「賛美」という項目がありました。だから、「讃美歌」を「賛美歌」と書きかえたのです。漢字の表記が簡単になっただけで、他には意味はありません。
 ただ、昔から使われている固有名詞は昔のまま表記されています。たとえば、本の名前として『讃美歌』、『讃美歌第二編』、『讃美歌 21』とか、『讃美歌委員会』などの名称などは、古い漢字をそのまま使っています。
 そのせいで、『讃美歌 21』を「賛美」しましょう・・・なんて紛らわしくなっています。あまり悩まずに、今は「賛美」、固有名詞で「讃美」となっているのは、そのまま使うと思っていただいてはいかがでしょう。

どうしてお祈りの時に「イエスさまの御名によって」と言うのですか?

イエスさまが、神さまへのお祈りを中継してくださるからです。

 旧約聖書の時代、人々は直接神さまの言葉を聞けませんでした。特別な人だけが、神さまの言葉を聞くことができたのです。その特別な人のことを「預言者」と呼び、「預言者」は神さまの言葉を「預かって」、人々に伝えたのです。
 またお祈りする時も、「祭司」と呼ばれる特別な人にお願いして、代わりにお祈りしてもらっていたのです。
 ところが、イエスさまが来られて、「預言者」に聞かなくても、神さまは語りかけてくださるよ、「祭司」に頼まなくても、直接神さまにお祈りすることができるよ、と教えてくださったのです。
その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。(ヨハネによる福音書 16 章 26 節/新共同訳)
 自分でお祈りしてごらんなさい。神さまはちゃんと聞いてくださるよ、とイエスさまが教えてくださったのです。だから、お祈りするとき、「イエスさまの御名(お名前)によって」とつけ加えることで、ちゃんと神さまのもとにそのお祈りは届きますよ、ということでお祈りの最後に唱えています。

教会の週報に、◯◯兄とか△△姉とありますが、どういう意味ですか?

「神さまの家族」という意味です。

 イエスさまは、こうおっしゃいました。
 そして、(イエスは)弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。(マタイによる福音書      12 章 49~50 節)
 イエスさまがこのようにおっしゃったので、神さまの御心を行う人のことを兄弟、姉妹と呼ぶようになりました。教会では洗礼を受けた教会員のことを兄弟、姉妹と呼んでいるのですが、それは「神さまの御心を行う」と決意した人々という意味で使っています。
 神さまの御心を行う人は、どんな人でもみんな「神さまの家族」である、ということから教会では、○○兄、△△ 姉と呼んでいます。

「マラナ・タ」って何ですか?

「主よ、来てください」という言葉です。

 「コリントの信徒への手紙一」の中でマラナ・タ(主よ、来てください)。(コリントの信徒への手紙一 16 章 22 節)という言葉が手紙の最後につづられています。
 これは、パウロという使徒が、コリント(今のギリシャにあるコリントス)で教会を作り、そこを離れた後にコリント教会宛に書いた手紙ですが、手紙をしめくくる最後の部分でこの言葉を使っています。
 イエスさまは、復活後天に帰られました。しかし、いつの日かまた必ずイエスさまが戻ってきてくださるという信仰があります。これを「再臨(さいりん)」と呼んでいます。
 この再臨の日がすぐにでも来ますように願って、パウロさんは手紙の最後に「主よ、来てください」と書いたのでしょう。
 『讃美歌 21』の 81「主の食卓を囲み」には「マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように。」と歌います。
 「主よ、来てください。主よ、来てください。主のみ国がきますように。」という意味で歌っているのです。

なぜ賛美するようになったのですか?

こんな理由があったからです。

 ① 聖書の中に賛美歌があるからです。
 聖書の中には、賛美歌があります。最も有名なところは旧約聖書の中の「詩編」です。これは 150 曲からなる賛美歌集です。「詩編」にはどのような旋律で、どのように歌うのか指示されているものもあるほどです。新約聖書にも「マリアの賛歌」「ザカリアの預言」「キリスト賛歌」など、たくさんの賛美歌があります。聖書は言葉の書物であると同時に賛美歌集でもあったのです。

②  聖書を覚えるために歌ってきました。
 聖書はもともと今のように印刷されたものではありませんでした。15 世紀までは、手書きで写すか、覚えていったのです。特に家庭内では、口伝えで覚えていったのです。ところが聖書は膨大な書物です。なかなか覚えられません。そこで、聖書の言葉に「節をつけて」覚えたのです。つまり、聖書を「歌って」覚えていったのです。

③  神さまへの応答として歌ってきました。
 聖書の言葉は、神さまからのプレゼントです。たくさんの愛や励まし、慰めといったメッセージが、聖書を読むことによって神さまから与えられます。その神さまから与えられたさまざまなメッセージへの応答として、礼拝の中で人々は歌ってきました。それらは「応答唱」と呼ばれてい
て、「キリエ・エレイソン(主よ、あわれんでください)」
 「グローリア(神に栄光あれ)」「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」「アーメン(まことにそうです)」など短い言葉で歌ってきました。

④  歌うことによって、御言葉を宣べ伝えてきたからです。
 16 世紀に起こった宗教改革は、「自分の言葉で聖書を読み、自分の言葉で賛美を歌う」運動でした。これによって、ただ参加するだけの礼拝から、積極的に参与する礼拝へと変わっていきました。賛美とは不思議なもので声に出さないで歌うと「自分へのメッセージ」となりますが、声に出して歌うと「他者へのメッセージ」となるのです。「牧師は言葉によって説教し、会衆は賛美によって説教する」とルターが記しているほどです。

 このように、聖書の中に賛美があり、覚えるために節をつけ、応答として賛美を歌い、歌うことによって御言葉を宣べ伝えてきました。まさに、聖書と共に賛美があり、賛美と共にキリスト教はその歴史を歩んできました。ですから、キリスト教は歌う宗教であると言えます。
 「主を賛美するために民は創造された。」(詩編 102 編 19 節)」

「アーメン」って何ですか?

「確かに」「その通りです」という意味の言葉です。

 わたしたちは、お祈りの最後に「アーメン」と唱えます。このアーメンとは、そもそもどういう意味なのでしょうか?
 「アーメン」とは、もともとは旧約聖書で用いられていたヘブライ語の言葉で、「確かに」「その通りです」という意味で使われてきました。
 新約聖書でも用いられており、相手の言葉に同意する時や、「よくわかるよ」と受け入れる(受容する)時に使いました。
 また、「まことに」「はっきりと」と、意味を強める時にも用いられました。だから、日常の会話で「アーメン」という言葉を使っても、ちっとも不思議ではありません。
 しかし、最も「アーメン」が用いられるのは、「お祈り」の時でしょう。「お祈り」を結ぶ時(終わる時)に、「アーメン」と唱えてお祈りを終わります。
 一人の人がお祈りして「アーメン」というと、みんなが「アーメン」と声を合わせますね。それは、「わたしたちも確かに、同じ思いで祈りました」という意味で唱えているのです。

「ナザレの村」って何ですか?

イエスさまが育った場所のことです。

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。(マタイによる福音書 2 章 1 節)
 その後いろいろあって、ナザレというところへ移り住みます。
 マタイによる福音書ではユダヤ人の王が生まれたことを憎むヘロデ大王の魔の手から逃れるために、エジプトに移り住み、ヘロデ大王が死んだあと、首都エルサレムから遠く離れたナザレへと移住します。
 ルカによる福音書では神殿詣を終えた後、もともとヨセフさんとマリアさんが住んでいたナザレへと帰ります。(このあたりのいきさつは、マタイとルカでは少し意見が異なっているのです。)
 こうして、イエスさまはベツレヘムで生まれましたが、ナザレというところで育たれ、おとなになるまでナザレにおられたのです。
 ナザレはガリラヤ湖という湖から約 50km の山の中にある町です。イエスさまはおとなになってからガリラヤ湖のほとりに出かけていって、神さまのことを伝えますから、それまでの青年時代をナザレで過ごしていました。
 『讃美歌 21』に287「ナザレの村里」という賛美歌があり、「村里」となっていますが、聖書では「ナザレというガリラヤの町(ルカによる福音書  1 章26 節)」と記されています。小さな町だったのでしょう。

「バプテスマ」って何ですか?

洗礼のことです。

 洗礼のことを、新約聖書のギリシャ語では「バプティスマ」といい英語では Baptism といいます。
 イエスさまに従って、キリスト者として生きようとするときに、この洗礼(バプテスマ)を受けます。
 洗礼の仕方には、いろいろとあって、全身を水に浸す「全侵礼」、頭部に水を注ぐ「灌水」、頭部に水滴をつける「適礼」などがあります。
 イエスさまの時代、洗礼者ヨハネという人がおり、この人が罪の悔い改めのための「水による洗礼」をヨルダン川という川で行っていました。この洗礼者ヨハネのことを、バプテスマのヨハネともいいます。
 イエスさまは、この洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ) を受けられました。
 洗礼は、古い自分が一度水の中で死に、新しく生まれるという意味の儀式です。こうして人々は古い自分に別れを告げて、新しいイエスさまに従った生き方を始めるのです。
 ちなみに水による洗礼を受けられたイエスさまでしたが、弟子たちには水による洗礼を授けられませんでした。
 「霊による洗礼」を授けるとおっしゃっていました。今、わたしたちは「霊による洗礼」を受けるために、その象徴として「水で洗礼」を行っています。

「三位一体」って何ですか?

父なる神さまと、子であるイエスさまと、聖霊はすべて一つの神さまの別の側面であるという考え方です。

 神さまには、三つの「顔」があって、「父親である神さま」と、その「子どもであるイエスさま」と「聖霊」のそれぞれの側面がありますが、どれも同じ神さまを表しているというのが、「三位一体」の考え方です。
 「聖霊」の項目で、説明しましたが、神さまを「太陽」と考えるならば、「三位一体」の考え方は、簡単に理解できます。
 わたしたちは、太陽の存在を知っていますが、太陽までは遠く、わたしたちは手で触れることができません。しかし、太陽は光を発します。その光は、わたしたちのもとまでやって来て、わたしたちを照らしてくれます。そして太陽は熱をもわたしたちに届けてくれます。たとえ、日が暮れて光がなくなった夜でも、熱が残っているために、わたしたちは凍えずにすんでいるのです。
 この太陽の存在が「父なる神さま」です。わたしたちは神さまを目で見ることも手で触れることもできません。しかしイエスさまが「光」として来てくださったことで、わたしたちは「神さまの存在」を知ることができます。そして、その「愛」が熱として伝わってくるのです。その「愛」を「聖霊の働き」と捉えているのです。

「使徒信条」って何ですか?

わたしたちが信じている「内容」を言葉にしたものです。

 イエスさまを信じている、といいながらその「内容」はといわれると、人それぞれ信じ方が違っています。でもそうなると、いろいろな種類のキリスト教ができあがってしまって、どこからがキリスト教で、どこからがそうでないのかが分からなくなってしまいます。
 そこで、教会は「これならば必要最低限、同じ信仰をもつことができるよね」と、みんなが信じている「内容」を言葉にしました。それが「使徒信条」です。
 「使徒信条」は 2 世紀後半、もしくは 4 世紀に作られたといわれていますが、もともとはイエスさまの 12 人のお弟子さん→「使徒」にさかのぼれるという言い伝えがあって、「使徒信条」と呼ばれてきました。
 「使徒信条」の内容は、「わたしは神さまを信じます」「わたしはイエスさまを信じます」「わたしは聖霊を信じます」という大きな三つの柱からなっています。
 その神さまとはどんな方で、イエスさまはどのような方で、聖霊とはどんな働きをするのかが書かれています。
 『こどもさんびか(改訂版)』の P.193 には正式に認められた教会教育用の口語訳がのっています。ぜひお読みください。よりわかりやすく理解できることでしょう。

「御言葉」って何ですか?

神さまの言葉のことです。

 「神さまの言葉」のことを「御言葉(みことば)」と呼んでいます。わたしたちも言葉を使いますが、神さまの言葉は特別な大切な言葉なので、「御」という言葉を足したのですね。
 その「神さまの言葉」は聖書に記されています。旧約聖書にも、新約聖書にも、「神さまの言葉」がたくさん書かれています。だから、聖書全体をさす時も「御言葉」と使うことがあります。
 また、新約聖書になると、イエスさまの言葉も「御言葉」というようになります。そして、「イエスさまが、今、共にいてくださっているんだよ」というメッセージも「御言葉」と使うようになりました。
 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。(申命記 30 章 14 節)
 神さまの言葉は「聖書」にのっているので、先生方が子どもたちに「聖書」の言葉を読む時に、「御言葉」を語っているのです。
 先生方が、イエスさまについて子どもたちにお話ししている時、そこで「御言葉」が語られているのでしょう。

「旧約聖書」と「新約聖書」の違いは何ですか?

イエスさまの前の時代の聖書と、イエスさまが来られてからの時代の聖書の違いです。

 聖書の歴史は、イエスさまが来られる前と、イエスさまが来られてからに分けることができます。
 イエスさまが来られる前に書かれた聖書が旧約聖書です。神さまが天地を造られた物語から始まって、ノアの箱舟やバベルの塔のことなどがのっています。そして、エジプトで奴隷であった人々がどうやって脱出したのか、カナンという地でどうやって栄えていったのか、そしてどうして滅びてしまったのかが書かれています。
 国が滅んでしまった時、神さまは「あなたがたを見捨てない。必ず救い主を送る」と約束してくださいました。これが旧約聖書のあらすじです。
 それから 500 年あまりたって、イエスさまが来られました。イエスさまは人々を愛し、病気をいやし、神さまの言 葉を伝えました。ところがそんなイエスさまは、多くの人々 に嫉妬されて十字架につけられてしまいました。しかし三 日目によみがえり、「いつまでもあなたがたと共にいますよ」とおっしゃってくださいました。人々は旧約聖書の約束がイ エスさまにおいて、実現したと感激しました。そして書かれたのが新約聖書です。