【開催報告】口語訳聖書刊行70周年記念講演会「口語訳聖書がひらいた地平—ことば・文学・信仰をめぐって」
1955年に刊行された「口語訳聖書」の70周年を記念し、2026年5月9日(土)、東京・渋谷の青山学院大学ガウチャー記念礼拝堂にて記念講演会を開催いたしました。当日は、戦後日本の精神的支柱となった口語訳聖書の歩みを振り返るとともに、文学、歴史、言語学の視点からその現代的意義を再考する貴重な機会となりました。
第一部:文学と聖書
講演「世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」
講師:鈴木 結生 氏(小説家、第172回芥川賞受賞)
鈴木氏は、牧師の家庭に育ち、震災後の避難生活の中で聖書の通読に没頭した経験などから「肌を通して聖書を吸収した」自身の原体験を語りました。ドストエフスキーやトルストイといった文豪たちが自作の中に「ミニ聖書」を編み込んできた歴史を考察。自らも「世界のすべて書かれた一冊の本」を追い求め、最新作『猫にバイブル』の執筆に至った創作の舞台裏を明かしました。
聖書を「神から人間へのラブレター」と表現し、文学と信仰の境界線を軽やかに横断するその言葉に、会場に集まった多くの聴衆が熱心に耳を傾けました。

対談:鈴木 結生 氏 × 松永 美穂 氏(ドイツ文学者、早稲田大学教授)
対談冒頭で松永氏は、鈴木氏の最新作『猫にバイブル』に触れ、ゲーテやディケンズなどの巨匠を題材にしてきた後に、「聖書」という大きなテーマへ挑んだことに称賛を送りました。鈴木氏は、本作について、単なる聖書のパロディではなく明治文学へのオマージュであると説明。また、「なぜ聖書に猫が登場しないのか」という疑問から着想を得たことや、分類・体系化への強い関心が作品に反映されていることを語りました。

第二部:学術的視点から見た口語訳聖書
講演1「口語訳聖書と戦後日本のキリスト教」 講師:吉田 新 氏(聖書学者、東北学院大学教授)
聖書学者の吉田新氏は、1955年に刊行された「口語訳聖書」が戦後日本のキリスト教界と社会に与えた歴史的意義を、最新の研究資料に基づき紐解きました。
吉田氏は、当時依って立つべき「標準的な口語文」が未確立であり、訳者たちは自己流の案を持ち寄り検討を重ねるという、道なき道を進む苦悩を経験したと語りました。また特筆すべき点として、 米国訳(RSV)を模範とする助言を退け、最新のギリシア語底本から直接翻訳する「学問的自立性」を貫いた点を紹介 。
口語訳聖書の翻訳が、文語体から口語体への移行が単なる言語的な現代化に留まらず、聖書のメッセージを特権階級から「民衆の言葉」へと解放する民主化のプロセスであったと指摘。占領下の社会変革の中で、口語訳聖書がいかに新しい時代の精神的支柱として受容されたかを歴史的に解き明かしました。

講演2「日本語史からみた聖書の日本語訳」 講師:近藤 泰弘 氏(日本語学者、青山学院大学名誉教授)
日本語学者の近藤泰弘氏は、「主の祈り」の言葉の変遷を具体例に、漢文訓読的な文語から平明な口語へと移り変わる様子を解説。明治元訳が格調高い「中立的な文語」を作り出した一方で、戦後の口語訳が標準口語のモデルとして機能した歴史的意義を語りました。
また、日本語特有の「敬語」について、原典にない敬語体系をいかに構築するかという課題に対し、明治元訳では神格に対してのみ「給う」や「御」を用いる独自の工夫が採られていたこと解説。さらに、中国における「神」と「上帝」の神の呼称論争が日本にも及んでいたこも紹介。聖書翻訳が、東アジアの教学史と深く関わっていた実態も示しました。
聖書翻訳は、時代に応じて、「より多くの人に、より明らかに伝える」という精神を一貫して受け継いできた営みであると言えると結びました。

講演の模様は後日Youtubeに公開予定。

