聖書について

「私の仕えているイスラエルの神,主は生きておられる」(王上17:1)。

エリヤ物語の初めに見られるこの言葉は,聖書の全内容を表している。聖書は,神と人間との歴史における出会いの物語である。この体験物語は,東地中海の諸国を舞台に,アブラハムとその子孫を中心に展開し,千有余年に及ぶ。唯一神への信仰は,紀元一世紀の終わりには,東地中海のあらゆる国に向けられ,多くの民族に,ついに全世界に伝えられることになる。

必要に応じて,ヘブライ語,アラム語,ギリシア語の三か国語で記されている聖書は,この神体験の集大成である。キリスト教では,これらの文書は旧約聖書と新約聖書の二つにまとめられている。旧約聖書は,アブラハムの子孫であるイスラエル民族と神との関係を述べている。神は,この民をエジプトでの奴隷状態から解放し,シナイ山で契約を結び,約束の地カナンを与え,さらにその後の歴史の歩みによって自らを知らせる。そこには,神による救いの体験に基づいて,未来の決定的救い主を待望させる数々の劇的な物語も織り込まれている。来るべき救い主はメシアと呼ばれ,新約時代になると,ユダヤ人以外の人々も,イエスを約束の救い主と信じ,メシアのギリシア語訳である「キリスト」の称号をこのイエスに付与することになる。初期キリスト者は,いち早く,イエスこそが,その言葉,行為,死,復活を通して,神がその民に与えた約束を実現したこと,そして,旧約の預言者エレミヤが告げた新しい契約(エレ31:31-34)を完成したことを確信する。

新約の使徒の一人であるパウロは,「コリントの信徒への手紙2」(3:14)で,イスラエルの指導者モーセを通して結ばれたシナイ山の契約に言及するとき,これを古い契約と呼んでいる。以来キリスト者は,この契約を中心として書かれた諸文書を「旧約聖書」,イエスによる新しい契約を中心として書かれた諸文書を「新約聖書」と呼び,これらを神の言葉,聖書として受け入れた。「新約」は「旧約」に取って替わったとはいえ,新約聖書を理解するためには旧約聖書を知ることがどうしても必要であり,両者は同一の神について語る連続の書である。

聖書の神は,その冒頭から,言葉において働く神であり,人間に働きかける。神はアブラハムに話し,アブラハムは行動を起こす。モーセは神の言葉を聞いてエジプトからの脱出を敢行する。イザヤとエレミヤは神の言葉を民に語る。「ヨハネによる福音書」は,イエスを神の言葉と呼んでおり(ヨハ1:1),事実,イエスにおいて,神が人間に伝えようとすることが余すところなく集められている。聖書の著者はすべて,その名前が知られていると否とにかかわらず,共通して神の言葉の証人であり,彼らのおかげで,今日もこの言葉は私たちの生き方を照らし,教え,導き,人々に新しい救いを与える。

『聖書 聖書協会共同訳』付録「聖書について」より